旅をすること
旅は自分にとって、なくてはならないものです。
一人ごとのような、つぶやきのような、
今の気持ちをぽろぽろ綴る日にします。
ポルトガルの公園にいた孔雀。
人生において精神的に必要なことって、人それぞれ違いますが、
自分にとって旅とは、本を読むこと、映画を観ることと同じくらい大事なことです。
たとえば本は、静かな時間を贅沢に過ごすのに使えるもの。
そもそも本という媒体がないと社会は成り立ちません。
映画は娯楽だけど、学びでもある。
ちょっとしたことや大事なことに気付かせてくれる。
本も映画も、ほとんどの人にとって、
なくてはならないものなんだと思います。
なくても多少我慢はできるけど、出来るのならあってほしい。
それと同等に私にとって大事なことは、旅です。
旅行好きの親の影響も数知れず。
新しいところや知っているところ、知ってる文化、知らない文化
どこに行ってもある新しい気付き、すごく好きです。
サンクト・ペテルブルグで歩いていたロシア感たっぷりのお兄さん。
日本で育った外国人として、私には2つの文化があります。
表面的な文化は日本。(外見ではなく)
喋り方、仕草、考え方、動き方、これは日本の文化からきたものです。
顔が西洋なのにそういった表面的な言動は日本なので
日本ではいつもびっくりされます。
そして内側の、あまり見えない部分はロシア。
物事の捉え方、感覚、喋る内容。
こういったものは親から受け継ぐことが多いですが、
私も例によって親から受け継いでいるように思います。
そういう自分ってすごく特殊なのかな、と
日本に住んでいるときはついつい考えてしまうのです。
ただ日本に住んでいるロシア人、
それだけのことを特別と思ってしまうことがあります。
旅に出ると、自分のバックグラウンドは
なんてちっぽけなんだーと気付かされます。
ありきたりな感想ですけど、
私にとってはこれが日常で感じるイライラを軽減させてくれるんです。
フィンランドに一ヶ月ほど滞在していた時、
一緒に滞在していた子たちと喋っていると
自分はなんて普通なんだと思い知らされました。
両親ともに複数のルーツを持つ人、
生まれも育ちも親の宗教も国の単位でバラバラの人、
移民として育った人、
移民街に育った現地の人、
みんな普通のことのように喋っていました。
それぞれ自分の言語を持つ人もいたり、いなかったり。
自分の視界の狭さ、日常の狭さに気付き、
改めて自分のルーツを日露両方の視点から見直すきっかけになりました。
ブリュッセルにある教会の入り口。
自分のバックグラウンドで一番悩まされたのは言語の問題でした。
ロシア人はロシア語を大事に思っています。
他の国のことはあまり知らないのですが、
日本と比べるとすごい母国語愛です。
どれくらい大事にしてるかというと、
「私はロシア人ですが、日本育ちだから喋れません」
とロシア人のマダムに言ったとしましょう。
「なんてこと!恥ずかしい!」
「親からなぜ教わらなかったの?」
といった答えが普通でした。
そんなことを言われる度に
(よく知らない人に、この人も私をよく知りもしないのに、
なんでこんなこと言われないといけないの)
と思っていたものです。
英語も然り。
英語がペラペラそうな見た目に反して、全然ダメだった私。
「なんで喋れないの!?」
と言われても、
日本の田舎で普通に育って喋れるようになるか?と聞き返したくなります。
そんなことで拒否反応しか出なかった言語問題は、
海外に行くことが増えて、必然的に、
下手くそだけど少しずつ喋れるようになっていきました。
言語が増えることで、理解できる文化が増えていきました。
ほとんどの文化は言語から成り立っていて、
ほとんどの言語は文化から作られています。
ロシア語が喋れるようになったらロシアが好きになったし、
英語が喋れるようになったら一人旅がすごく面白くなりました。
ソウルでみつけた壁の絵。
もっともっといろんな言語を知って、いろんな文化を知って、
もっともっと旅をしたいなあと思うのです。