依存を考える
自分の作品についてのメモ書き。
「依存」という言葉に興味をひかれます。
人は依存なしには生きてはいけないですよね。
教育のせいか依存と聞くと
酒、煙草、薬物というセットの言葉がすぐでてきますし、
現代ではゲーム依存、携帯依存とかテレビ依存とか
そもそも「依存症」という病気のイメージがついてきます。
コトバンクで調べてみます。
まずデジタル大辞泉より、
い‐そん【依存】
とあります。
おおう、思ってたこと言われた、って感じっす・・・!
つまりは上記の通り、依存とはマイナスではなくプラスの要素も多くあり、人間にとってそれは安心感や安定感につながるのです。それがあまりに強くなり制御できなくなってしまうと、いわゆる依存症になるまで。
もうひとつ、依存のなかでも特に興味をひかれているのが
「環境依存」と「環境適合」
ここからがメモ書き本番、
自分の頭の中をぐるぐる引っ掻き回して言語化していきます。
なぜかここからは敬語がなくなります。きっと頭の中の話だから。
環境とはここでは身の回りに存在する街、人、建物、文化など。
まずわかりやすいところで、方言のあり方。
方言はそれぞれ地方独特の喋り方で、周りから言葉をきいて育ち、学んでいく。よって周りと同じ喋り方になり、それが「普通」になる。
普通とはいわゆる「だいたい一般的」という意味でもあるけれども、人が許せる範囲のボーダーラインのようなところでここでは使っている。
地方からもっと場所を絞っていくと、例えば学校での会話、幼稚園での会話、大学での会話、家の中での会話、お店の中など。それぞれの喋り方、喋る内容は全て違うもので、その中で通じるものがどんどん形成されていき、その場の「普通」になっていく。
小さい単位の方言、もしくは小さい単位の文化である。
人がその人として形成されるため、もしくはその人の性格が形成されるためには身の回りに存在している人から言葉をもらい、例をもらい、学んでいく。
周りに多くの例があるからこそ人は個というものが持てて、現代にはインターネットを通じて、人のいる現在位置から遠く離れた場所にまでアクセスができ、そこから例が与えられる。
インターネットがない時代、旅行や出張によく行く人にあった、なんとなく他とは違う雰囲気の人というのは多くの例に出会ってきた人たちで、より多くの文化に触れることでその分多くを吸収し、それぞれの普通をがんばって身につけた人たちなのか。
自分像は自身の目からは認識ができない。他人の意見からイメージした自分と、鏡でみた虚像の自分のみを視覚で認識できる。写真や動画からも認識はできるけれども、生きている今本物の自分というのはどうあがいても見ることができない。
物理的な感覚を除いて、視覚だけでは自分自身は存在することができない。
そこでその場の環境にある文化をもとに服を着る。意識的にでも無意識的にでもその環境にあるモデルがあり、それに適するように、もしくは目指すようにファッションを身にまとい、その場に存在するものとして変身し、自分という存在をなじませる。
その環境に依存することで精神的な安心、安定を得て、存在を許されることになる。
許されるとはつまり、奇異な目でみられること、言語が通じないと恐れられることをされずに、同じ環境にいても誰も困ることがなくなるような感じのこと。
何かよくわからない物、もしくは人というのはその環境に「普通」の中に生きている人にとっては驚異であり、できるだけ避けたい物。避けられないためにはその環境に適合する必要がある。
結果的に得られた安心という快楽は依存していると言える。更にその土地のルールを守るといって他人をルールで縛るようになってしまうと、それは環境に対しての依存症と言えるのはないか?
その場の環境や文化より、もっともっと小さな単位になると、身体になる。
人間は身体に依存していて、肉体的にも身体をもっていないといけないし、身体に障害があればそれを補うための身体になるし、精神的にも、肉欲的にも、人間という身体に依存しているように思う。
んん!結局あたまの中はまとまらずにぐーるぐーる。
今日はこのへんにして、ぼちぼち考えます。
いくつかの文章は鷲田清一「ちぐはぐな身体」を読んで書いたことのメモ書きでもあります。